2014年12月09日

田中美知太郎・小林秀雄「教養ということ」

「教養ということ」は昭和39年(1964)6月「中央公論」に掲載された対談である。小林秀雄は私が師と仰ぎ見、このブログで最も多く取り上げている評論家である。一方、田中美知太郎は哲学者で、私はギリシャ哲学の多くを彼に学んでいる。この両者の教養は非常に深い。したがって一部だけ取り上げるのは物足りないが、とりわけ印象に残った部分を抜粋する。

田中 文章に制約されて考えていることもあるでしょうね。自分の文体があって、考えることがその文章の枠内に納まっちゃう。考え方を変えようと思っても、自分の書きなれた文章で考えるほうが楽なんだから。
小林 それが文章を変えることのできない所以なんだけれども。ぼくら抽象的思索というようなことをよくいうが、文学の世界にいると、どうしても言葉で考えます。言葉が出てこなければ、なんにも出てきませんからね。だから言葉を探していてみつかると、先が開けてくる。抽象的計算というのは別だけれども。
田中 抽象的といってもやはり言葉でしょう。数学的に考える場合は、シンボルで考える。しかし数学者なんかでも案外ものを考えてないのじゃないですか。
小林 数字にたよってね。
田中 ホワイトヘッドがそういうことを言っていました。数学は思考の練習になるというが、そんなことは嘘だ。ただシンボルを操作しているだけで実際は考えていないことが多い……。
小林 そういうことはたしかにあるね。「数学者が実はものを考えていないのだ」というような言葉は、なかなかわかりにくいのじゃないかな。つまり合理的に考えようとすることは、極端にいえぱ数式に引張られている状態になるわけで、ほんとうの考えというものは、合理的にいくものではないんじゃないか、というようなことを私はよく考えますね。
田中 考えるということは、案外感覚的なものですね。イメージとか言葉に捉われない純粋な思考というのは、一種のあこがれみたいなものでしょうね。
小林 ぼくら考えていると、だんだんわからなくなって来るようなことがありますね。
現代人には考えることは、かならずわかることだと思っている傾向があるな。つまり考えることと計算することが同じになって来る傾向だな。計算というものはかならず答えがでる。だから考えれば答えは出るのだ。答えが出なけれぱ承知しない。
田中 たとえば、新憲法に賛成ということをいいたいために文章を書く。これは考えるのではなく宣伝ですね。新憲法の実体に取り組んで考えてみようという場合には、結論は賛成か反対かわからないわけですね。それが考える文章というものでしょう。

小林 文章の結論がどこへ行くかわかってしまえぱ、自分でもおもしろくないですね。
だからわかっていることはぼくはけっして書こうとは思わない。どうなるか楽しみなんだな。そのかわり、書いていくことと考えることがいっしょなんですよ。ぼくなんか書かなくちゃ絶対にわからない。考えられもしない。
田中 ソクラテスなんかの場合だと、賛成とか反対とかはどうでもいいことで、問答でどっちへ変わっていくかわからない。「ロゴスが動くままに身をまかせる」という意味の有名な言葉がありますね。ただ結論をはじめから決めてかかるというジャンルは昔からあったわけで、法廷弁論がそうですね。検事は有罪、弁護士は無罪という結論を出さなければならない。ぼくはよくからかうのだけれども、日本の言論界はだいたい法廷弁論型ですね。
だいたい日本人は法律論が好きですね。憲法第何条に違反しているか、いないかといった議論ばかりして、国策としてどちらが役に立つかを考えない。あれは政治の議論ではない。政治家というものは、結果的には、自分の最初の議論を否定しても国利民福にプラスするようなものが何か出せるという、リアリスティックな精神がなければだめですね。

小林と田中は、文体にはものを考える時の癖が出てくる、そして数学的・論理的思考は「考えていること」にはならないと指摘する。小林は「わかっていることは書かない。ほんとうの考えというものは、合理的にいくものではない。」とまでいう。私は小林のエッセイをよく読むのだが起承転結のない文章で要点がどこにあるかわからず、内容を紹介するのは容易でないことが多い。小林自身「わかっていることはけっして書こうとは思わない」と書いているのだから、それも当然で、凡人である私などは、その間、ああでもない、こうでもないと頭をひねる。結局、気が付いてみるとそのことが考えを深めることにつながっている。

さて今回は小林式で起承転結の無い「自分でもわかっていない」ことを考えながら書いてみる。

私は今までこのブログで政治・経済問題に関してはあまり言及したことがない。それは政治・経済問題は変わるもので普遍的な哲学的価値ではないと軽視しているせいもある。しかし現在、総選挙のさなかだから、たまには現在の政治・経済状況を考えてみるのもいいかもしれない。
田中の言葉から連想したことから始める。田中の場合は小林ほどひねくれたところはなく、重要なポイントをすっと教えてくれるタイプだ。「政治家というものは、結果的には、自分の最初の議論を否定しても国利民福にプラスするようなものが何か出せるという、リアリスティックな精神がなければだめですね。」と言っているが、まったく同感する。
各政党の言っていることは個別にはもっともだと、つい思ってしまうのだが、よく考えると長期的、全体的連関、将来への展望に欠けるものが多い。たとえば1000兆円の赤字国債にしても、どうやって解消するつもりなのかわからない。年10兆円ずつ返しても100年かかるほどの金額である。2〜3%の消費税増税分では年何兆円にもなるまい。福祉や年金の切り下げにも限度がある。とすればインフレにして通貨価値を下げることぐらいしか考えられない。アベノミクスはこのインフレ策をソフトにやろうとする試みである。総理は景気をよくし、企業の利益を上げ、賃金を上げ、国民経済を豊かにし税収を上げる好循環を作って解決しようというのだが、それは長期的には続かない。短期的に10兆円税収が増えても100年も続かない。景気は循環するからだ。だからインフレの方が本当の目的なのである。なぜなら1%のインフレで国の借金1000兆円に対し10兆円の減額効果があるからだ。消費税増税もインフレも同じ効果がある。今政府が目標としている2%のインフレは毎年20兆円の減額効果をもたらす。とすると50年で借金がチャラになると計算できる。インフレは国民全体に被害を及ぼすがとりわけ金持ちに被害が大きいので、自民党以外の弱者にやさしい政党も支持できる政策のはずだ。金持ちだって突然の恐慌よりはましだからこの政策は支持できるに違いない。ここまでは論理的思考の次元であり、誰でも理解できる話だと思う。
ところが実は経済は、さまざま複雑な要因が絡んでおり、過去の経験則がうまく働かない。予想通りに事が運ぶなら苦労はしない。民主党が「アベノミクスは古い経済政策なんです」と言っている。アベノミクスは経済刺激策なのだから、その指摘は正しい、しかし、かといって民主党の「人に投資する」経済戦略も従来のバラマキ手当とどう違うのかがわからない。たとえば教育に対する投資も費用対効果が定かではなく、経済成長が見えてこない。人にただで金を配る政策は破たんする。経済成長策は古いというならそれはそれで別のイデオロギーの話だが。それ以前に前回の民主党政治はバラバラで政策実施以前のレベルで政治を任せられるまでの成熟さがない。ちなみにそのほかのミニ政党も政策以前に喧嘩ばかりで離散習合したり、「憲法第何条に違反しているか、いないか」レベルの硬直さから脱せず「自分の最初の議論を否定しても国利民福にプラスにする」提言が見られない政党だったりする。たとえば中国の超大国化・軍事大国化、海洋進出の野心をどう受け止めるのか。政治状況は一昔前と全然違ってきているのに、同じ主張を繰り返している政党がいるのも困りものだ。以上、積極的に支持できる政党や政治家が見当たらないのである。
経済は人間心理が強く働く分野である。だから民主党の「モノからヒトへ」というスローガンもある意味では正しい。ほんとうは「モノもヒト」も質が変わらなければだめなのだ。ヒト、モノ、カネといった経営資源は連関しているからだ。かつてのように人は質を問わず物をほしがる時代は終わっている。そこへ日銀が銀行が買わなくなった国債を大量に買ってカネを市場にどんどん供給している。需要がないのに通貨を増やせばインフレになるはずだとの計算だ。先に述べたようにインフレ政策そのものは正しいと思う。しかし日銀はカネ(通貨)を数字としてしか見ず、モノの質やヒトの心理を見ているわけではない。だから2%のインフレになるまでどんどん通貨を供給する(=はてしなく国債を買う)ことだけを考えている。2%インフレ以外の出口戦略が見えてこない。それでは心配である。全体の連関を考えないと重い病気になる可能性があるからだ。日本を人体にたとえれば通貨は血液であり、景気は体温である。体温が一度下がれば免疫力が30%低下するが、免疫力低下は万病のもとであり景気の低下が続くなら、それは国が死に至る病となる。かといってこのまま日銀がどんどん通貨の輸血を続けると、ある日突然、高血圧で血管が破れ脳出血など死に至る病に陥る可能性がある。通貨を流す循環器系だけではなく、モノを消費する消化器系、エネルギー需給としての呼吸器系など全体がシステムとして関連しているので、何らかの手術をする(政策をとる)場合はどこかに病変は来ないか細心の注意を要するのである。そうした全体を見渡せる教養人はいないものかと思う。
地球温暖化も少子化もなにかおかしい。病的状態にあるのだが解決の糸口が見えない。われわれは共産主義・社会主義イデオロギーの破たんを見ているから資本主義は正しいものと思いがちなのだが、モノが足りた時代に合わせた新しい経済システムを必要とするのかもしれない。解決は多分ソフトランディングしないと思う。生物が氷河期を超した時に大進化を見せたように、スーパーインフレなど恐慌を経験しないと、人は考えを変えられないのだろう。

最近、以上書いたような論理的思考だけでは薄っぺらいと感じることが多くなってきた。私は一応Webプログラマーなのだが、最新のプログラミング技術や経済問題より、芸術、あるいは古典の方に関心が移ってきている。私も技術者なので工学的うまいアイディアが浮かべばさまざまな原理を組み合わせる思考実験を楽しむこともあるが、それより昔の人が作った作品をながめる時間が多くなってきた。モノもヒトも質が大切だと思う。そこで私も多少なりとも教養を深める(人間の質を上げる)ため先日、東京国立博物館で「日本国宝展」を見てきた。最大の目当ては八戸で出土した土偶「合掌土偶」だった。国宝を見ていると昔の人の集中力や熱意はすごいと感心する。テレビを見たりネットを検索したりして過ごしている現代人には及びもつかない発想と集中力である。文化や技術は継承であり、現代文明もいいところもあるが、温故知新で昔を振り返ることは大切だと思う。
話がテーマとかけ離れてきたので、「合掌土偶」は別途論じたい。

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2014年12月03日

bohemianvoodoo「Aromatic」

Aromaticは11月19日に発売されたが、そのころ私は八戸にいたので、東京に戻り、11月30日に新宿タワーレコードで購入した。アマゾンで買わなかったのは付録のDVDを入手するためである。プロモーション用DVDの内容はほぼYouTubeでも見られるものと同じだが、内容に若干の違いがある。プロモーション用DVDにはbohemianvoodooの各メンバーとAki Sawazakiの肉声が追加されているのだ。今回のCDにはボーカルが参加している作品が3曲ある。
今回はCDジャケットの中にそれぞれの曲の解説があるのでイメージをつかみやすい。
カッコ内は日本語の曲名と私の意訳である。まず、それぞれの曲の感想を述べる。

01.Seven Color Days(セブン・カラ−・デイズ:七色の日々)
bashiryの結婚を祝った曲である。これから起こるさまざまな日々を2人で一緒に記憶に刻んでほしいとメンバーが願って作った曲である。
もったりとした出だしで始まるのだが、やがてだんだん色づいてくる。そして印象派の絵のように、多様な色と光が交錯する。柔らかく音は流れ、一歩一歩、歩むように展開する味わいのある曲である。
私は、昨年10月、「Color&monochrome」を新宿タワーレコードで買った時にbashiryを見かけたことがあるが、その時一緒だった彼女が奥さんなのかもしれない。当時なにやら一生懸命bohemianvoodooが出したCDの説明をしているようだった。別の女性だとするとトラブルになりそうだな。

02.El Ron Zacapa(エル・ロン・サカパ:高級酒・ロン・サカパ)
Ron Zacapaはグアテマラの高地で作られるラム酒のことである。接頭のElはelevationすなわち高級と言う意味ではなかろうか。
ロン・サカパは高級酒として評価が高く、甘くてかぐわしい酒のようで、その世界を描いたようだ。
この曲はプロモーション用DVDにも使われており、このアルバムでもっとも個性的で実験的な曲なのだが、一般人にはタイトルの読み方がわからないだろう。ちなみに品性のよからぬ私は最初「エロガッパ?」と読んでいた。
この曲はメンバーがとりわけ音を楽しんで、演奏しているなと感じる。低音から高音まで響きの美しい曲だが、とりわけ電子ピアノの高音の響きが印象的で切れ味がよい。高地で作られた度数の高い酒には琥珀色の透明感を感じる。天空に響く曲である。

03.Cardamom(カルダモン)
カルダモンはインド原産の香辛料のことである。低音のドラムとベースが主役で大地に響き渡るジャズらしい一曲である。インド映画のようにダンシングな曲である。リズムがとても心地よく、自然と体を前後に揺らしながら聴いてしまう。

04.Mothertree(マザーツリー:母なる大樹)
bohemianvoodooのアルバムの中に初めてボーカルが入った曲である。Aki Sawazakiが歌っている。Aki Sawazakiはプロモーション用DVDを見ると、若いころの木村佳乃に似たほどよい美人で好感が持てる。マザーツリーとはイオリの故郷、青森県と秋田県にまたがる世界自然遺産の白神山地にある樹齢400年のブナの巨木のことらしい。曲はイオリ、作詞はAki Sawazakiである。詞と曲はそれぞれ調整が必要になるので相当手間がかかったのではないかと思う。
都会で暮らす中で、大自然に包まれた母なる大樹を思い起こし、渡り鳥の気持ちになって歌った曲である。
Aki Sawazakiの歌声が空想の森の中に響く。私はなんとなく宮崎アニメ「もののけ姫」を連想した。それは大自然の森の中で木漏れ日が輝き、さまざまな生きものの精気が息づいている世界である。
都会はデジタルで人間が住むのに便利なように合理的に作られた世界である。都会は平面や四角で満ち溢れているが、自然には直線はなく、その世界は丸みを帯びたアナログである。人間は合理的(デジタル)な世界だけでは疲れて生きていけないから、論理や理性を超えた分野として音楽や絵画を必要とするのだろう。今回はアナログレコーディングをしたとの記述があるが、古いものやアナログなものは角が取れているので、やさしくなる。私がマンションより古い家を好んで住んでいるのもやさしくなじみがよいからである。

05.Families(ファミリーズ:家族の日常)
家族の当たり前の平和な日常を描いた曲、bashiryらしい優しい曲である。私はこの曲を聴きながらbashiryはなぜこんなに心の奥に響く曲を作れるのかと想像した。それは彼の生い立ちが深くかかわっていると思う。このアルバムではFamiliesとA Peacockが彼単独の作曲である。そこに共通しているテーマが「家族」である。詳しくは知らないが彼には外国人の血が入っており、外国に住んだ期間も長かったらしい。それゆえに自分とは何者か、家族とは何かと深く深く思いを巡らした時間が長かったのに違いない。そのことが彼の感性を育てたのだと思う。bohemianvoodooにはその感性が深く息づいているのである。
このファミリーズも小津安二郎の映画のように、ポツリポツリした平凡な家族の日常が淡々と美しく描かれている。

06.Ferris Wheel(フェリス・ホイール:大観覧車)
ベースのNassyの作曲にイオリが手を加えて完成させたものだろう。曲はベースが主役であり、大観覧車に乗った時のわくわく感やドキドキ感が、心臓の鼓動として響いてくるような曲である。このドキドキ感は風景のせいだろうか、それとも同乗者と乗っているせいだろうか。ちなみに私の場合、大観覧車に乗った時は高所恐怖症で怖いドキドキ感だった。

07.Cleopatra's Dream(クレオパトラの夢)
ジャズの定番バド・パウエルの名曲である。bohemianvoodooは結成初期のころからこの曲を演奏しており、YouTubeなどで見ることができるが、当時の演奏と比較すると今回は相当にアレンジを変えている。YouTubeではクレオパトラの夢はバド・パウエル自身をはじめ多くのプロ・アマの演奏が見られるので、比較しながら聴くと面白い。たいていは演奏が下手である。プロでも観賞に耐えられるバンドは少なくバド・パウエル自身の演奏には遠く及ばない。ところが今回bohemianvoodooが新しくアレンジした演奏はなかなかのできである。彼らの実力がよくわかる。バド・パウエルの演奏では高速の指さばきで叩き出す主役のピアノの音だけが際立つように、ドラムのスティックにまで工夫を凝らしている。しかしbohemianvoodooは違う、初期の演奏からも進化していてまるで別物である。ピアノもギターもベースもドラムも舞いあがるようなはじけるような演奏は、バド・パウエルとは違った迫力がある。他のクレオパトラの夢と聴き比べてほしい作品である。

08.Skyroad(スカイロード:空と道)
車窓いっぱいに広がる、どこまでも続く空と道をイメージした曲である。
おだやかでのんびりした曲である。激しい曲なら下手でも気が付きにくいが、この曲のように脱力し余計な力を抜いた演奏をする時こそ演奏のセンスがわかる。強い主張がないので、ぼんやりとだらだらといつまでも聴いていたい曲で、BGMに最適である。

09.Relation Ship(リレイション・シップ:仲間と共に)
ボーカル参加の二曲目はHiro-a-keyが歌う。作詞もHiro-a-keyである。その声は個性的で日本人離れをしていたので、ネットで調べたら幼少期はアメリカで生活していた帰国子女のようだ。この曲は仲間どうしの友情を歌った曲である。聴きながらこれは実際にHiro-a-keyが日ごろ感じていることをそのまま歌った曲ではあるまいかと思った。そこでネットで検索してみた。するとHiro-a-keyとAki Sawazakiには共演経験があるし、イオリもAki Sawazakiのステージでピアノ伴奏したことがあるようだ。すなわちジャズの世界ではいろいろな人々がつながったり、離れたりするのが日常なのだろう。とりわけ市場が小さいジャズの世界では食っていける者はほんの一握りである。そのような世界で友情をはぐくみ夢を追いながら頑張る若者達を想像しながら聴いた。
私はどのような世界であれ、向上心に燃え挑戦し続ける人が好きである。成功は金銭的なことではない。世の中を感動させる優れたものを提供することに価値があり、そのことが最も重要なことだと思う。音楽に限らず、いかなる分野でも新しいモノや考えを生みだす創造者こそが本当に生きている人だと言ってよい。

10.Father And Bookshelf(ファザー・アンド・ブックシェルフ:父と書棚)
イオリが父の書棚に影響を受けた印象を描いた曲と解説されている。クラッシックは客観の美の追求から入るのに対して、歌謡曲やポップス、ロック、ジャズは主観の感情の吐露から入る。クラッシックは形而上学的でその他は実存主義的といってもよい。いずれから入っても主観と客観が一致した時に共感が得られるのだ。イオリも具体的な経験が、最初の作曲の動機となったのだろうが、個人の感想に留まっていては曲を聴く人どころか演奏するメンバーにすら共感は得られないだろう。この曲の場合一般的に父の書棚が子に影響を与える感情に共感があるとすれば、その試みは動機の入口では成功である。そうではなく、タイトルは記号でよく、曲が心地よいと評価されることを狙うなら、それはクラシックに近い客観的、真・善・美の追求から入っていることになる。bohemianvoodooの曲はおしゃれで美しい演奏に共感を得られており、実はクラシック的な入り方をしていると思う。

11.A Peacock(ピーコック:孔雀の包容)
bashiry作曲である。彼の母のトレードマークが「孔雀の羽」でその羽を広げて守るべきものへの思いの強さをモチーフにしたと解説にある。このタイトルも個人的主観から入っている。一般的には孔雀と言われても、母を連想することはない。したがってタイトルは個人的なものである。井上陽水に「とまどうペリカン」という曲があり、男=ライオン、女=ペリカンをみごとに象徴しているなと感心したことがあるが、この曲の孔雀はそのような象徴にはなっていない。ここでもタイトルは意味はなく記号である。
私は、たまたまジャズバーでbashiryの母を見かけたことがあるが、オーラを感じる強い存在感のある人だった。だから「孔雀の羽」がトレードマークだったとのエピソードはよく共感できるのである。しかしそれは一般的には理解されないだろう。
とにかくbashiry自身が家族を持つようになり、昔のことを思い起こす心象風景を描いたのだろう。やさしさを感じる曲である。

12.Jet Setter(ジェット・セッター:ジェット機の人)
Hiro-a-keyによる全部英文の作詞でHiro-a-keyとAki Sawazakiとのデュエット曲である。本や映像を見ながら世界中をジェット機で旅行する気分を歌った曲である。英語の発音は完ぺきである。Paris France NewYork Africa Tokyoのフレーズが印象的だ。ところでこの曲は男女のデュエット曲の割にはあまり恋愛感情を感じさせない。Hiro-a-keyとAki Sawazakiは長い付き合いのようだがその関係は定かではない。とにかく曲は旅への夢と憧れで盛り上がっているのだが、色っぽくはない。
曲はかっこよく品がよいのだが、聴いている私の感性がいやしいのである。

13.Flyaway(フライアウェイ:うみねこの旅立ち)
解説によると八戸の蕪島のうみねこが勇ましく旅立つ様子を描いた曲のようである。ここで、うみねこは別の道を進むことになった仲間を象徴し、その幸運を祈っていると書いてある。仲間とはbohemianvoodooの前ドラマ―井上のことだろうか。ちなみに代わりに入った山本拓矢は若手の実力者だとのうわさだ。DVDでも「すごい楽しいですね」とぼそっと呟いているのがまじめそうで好感が持てる。井上よ心配せずに道を歩め。
このサイトはうみねこ堂一丁目であり、うみねこには多大な関心があるので注目して聴いた。うみねこは普通のカモメより大型で気性も荒い。曲の最初は穏やかなのだが、やがて不安がのぞきはじめ、曲の終盤では空に向かって力強く飛び立っていく光景が目に浮かぶ。

新宿タワーレコードに出かけた時、まずジャズの売り場の状況をチェックした。9月に発売になったPrimitive Art Orchestra(プリミティブ・アート・オーケストラ)の「HELIX(ヘリックス)」は赤いジャケットのCDは売れ切れで、白と黒のみ残っていた。宣伝の写真は外され通常の販売体制になっていた。今回の「Aromatic」は11月19日に発売になったばかりなので、現在宣伝中でジャズのエリアでは最も目立つ所で写真付きで試聴可能になっていた。私がジャズ売り場の状況をながめている時、50歳ぐらいの中年男性がつかつかやって来て「Aromatic」を試聴し始めたので、私は横から平台のCDをすっと取りレジに向かった。ジャズバーには若者が多く集まるが、ジャズに興味を持っているのは中高年が多い。意外にもbohemianvoodooは中年に受けているのかもしれないと思った。レジで会計をしている間に、ジャズ売り場のBGMでbohemianvoodooの初期のヒット曲「Get Dressed Up」が流れた。タワーレコードもわかってるなと感心しながらも、bohemianvoodooファンに対して新作のアルバムが発売になったと気付かせる宣伝効果を狙うのだとしたら、前回アルバム「SCENES」の「Adria Blue」を流すべきだろうと呟きながら会計を済ませた。
香り高い音楽というのが今回のテーマのようだが、実は家族や仲間との愛情、友情が主なテーマだったのではないかと思う。曲はそれぞれが別物で、bohemianvoodoo音楽の幅の広さを感じさせるアルバムだった。今回はいろいろな音の実験をしているなと感じる曲が多くあり、面白かった。ボーカルの参加も成功だったと思う。CDの価格は2500円(税込2700円)と少し上がったが、CDの相場としては普通で「SCENES」の時のお得感に比べると、若い人にとっては消費税も加わり若干高めの印象をもたれるかもしれない。しかしCDの製作にはコストがかかるのである。本なら著者と編集者がいれば簡単に出版可能で印税も8〜10%と高いが、CDの場合はスタジオ使用料が最も高く製作費の5〜6割を占める。製作関係者も本とは比較にならないくらい多く、作曲・作詞の著作権の印税は6%と低い。アーチストの演奏料歌唱料も3%程度である。2万枚ぐらい売れないと基が取れないのである。ジャズの分野で通常1万枚は厳しい。bohemianvoodooも前回アルバム「SCENES」から売れ始めたがCDの印税や演奏料で生活するのは厳しいのが現実だろう。
私は時々NHKEテレの日曜美術館を時々録画にとって見ている。同じ時間帯で大河ドラマを見ているので録画で見ざるを得ないのだが、本阿弥光悦の時、BGMとして「Color&monochrome」のfox capture planの曲が使われているのに気が付いたことがある。音楽担当は千住明で彼はジャズの領域までチェックしているんだなと感心した。fox capture planは同じPlaywrightレーベルでbohemianvoodooとともに2つの主柱である。bohemianvoodooの曲もまたBGMとして使われていると聞く。音楽に新しい潮流が興り始めたと感じるのは私だけだろうか。

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2014年11月24日

小林秀雄「道徳」

「道徳」は昭和39年(1964)6月「文芸春秋」に考えるヒントシリーズの一遍として掲載されたエッセイである。
最近、「道徳」を学校教育の場で「教科」とする動きがあるので、これを機会に取り上げてみた。内容はかなり長く、小林はあいかわらず入り組んだ議論を展開しているが重要と感じた部分を抜粋する。

徂徠は、「飛耳長目」という古語を好んで使った。耳は幾千載に飛行して歴史の声を聞き、目は広く社会の事実にわたるのを学問の道とすると言うのだ。素行や仁斎に既に在った実学の風が、徂徠に極って、儒教思想の上で、大きな転回、道徳の考え方の上で殆どその価値転換とも言っていいものが現れたのは、この彼の歴史と、社会との考えの、学問へのはっきりした導入によった。
(中略)
当時の江戸町奉行は大岡越前守であったが、或る時、徂徠を招いて饗応し、自分は大役を蒙って、町人を支配しているが、かねてより身の無学を恥と心得ていた、ようやく決心定った故、今日から門人として先生の学の聴聞を許されたいと申し入れたところ、徂徠は、きっぱり断った。御奉行は、名判官と謳われ、只今までの御さばきで、町人は得心しているではないか。その上、学問などとは無用の事である。学問は大道であって、急に学んで用に立つものでない。それに、学んで、なまじ少し許り明るくなれば、万事が非と見えるという事もある。学問は、隠居してから、という事に致してはどうか、と答えた。奉行も、さすがに人物であったから、直ちにこの意見に服した、という話が伝えられている。真偽のほどは、わからないが、徂徠という人は、このような逸話を生むような人だった事は疑えない。そういう人間が、彼の学問の「飛耳長目」という方法に棲みついていた。私達が使い慣れた言葉で、彼の学問のリアリズムを言うのはいいが、その場合、リアリズムは、彼の学問の方法や理論に関係するより、寧ろ彼の言う「人といふ活物」に、直かに関係していた事を忘れない方がよい。
徂徠には、当時の学問の諸学説よりも、学者の顔の方が見えていた。学者達が、めいめい門しょうを限って、他を排して、互に譲らず、眼中に藩学だけがあって、天下公共の情のないのは、あたかも無学な武士達の眼に主家だけが映じているのと同断である、そういう当時の学問界の実相が見えていた。これは、ただ、空言が流行しているでは済されないので、実相が語っているのは、彼等が競う道徳に関する妙高の説が、彼等の蔵する単なる私智を、聖人たらんとする徒らな卑しい自負を、明らかに現しているという事だ。彼等の根本の誤りは、議論の精を尽して、道徳の原理に迫ろうとするその事にある。
学問の対象は自然の事物ではなく、人間の活動である。従って道徳に関しては、窮理の道ではうまくいかない。定準がなくなる。定準のない理が、私智と結ぶのは当然な事だ。もし、古義に徴し、古書を読めぱ、聖の原理の代りに、聖人という人間が見えて来る筈である。のみならず、彼は、「いやしくモ徳アラバ、挙ゲテコレヲ事業ニ措」いた人間であった事がわかって来る。
(中略)
社会科学の道徳的図式は、初めから人格には凡そ無関係に構成されたものだから、無論、人格などという落し物をする筈はない。社会という対象化された自然的秩序は、私達に直知されている人格の秩序に、ただ反するものではあるまい。二者は、単に通約の利かぬ概念でもなければ、綜合するに適当な現代好みの反対概念でもあるまい。両者は、互に相手を拒絶し、敵対しつつ共存している現実の与件だ。在るがままの世の中が見せている、二重になった素顔であろう。
それがはっきり見えているという事が、夢みず覚めて世間に生きているというその事だとも言えそうである。この現実的な一種の感触に、道徳について考えようとする言わぱ人格的初心があるのではないか。初心忘るべからず、それが徂徠という思想家がやった事だ。それが、彼の道徳に関する烈しい思索を読みながら、向うから直かに私に伝わって来ると思われる考えであった。

「道徳」に似た言葉に「倫理」があるが微妙に違う。現代においては倫理学はあっても道徳学はない。すなわち「道徳」は近代以前から部族や民族の中で歴史的に育まれ、人が集団的生活をする上で守るべき理想であったのに対し、「倫理」は近代以降、自我に目覚め神の束縛から解放された人間中心主義、啓蒙思想などに基づいており、個人の自由、平等、人権などの価値観をベースに西欧で構築された社会科学である。だから現代的意味においては倫理は学問だが道徳は学問ではないため義務教育で道徳を「学科」とするのには違和感を感じるのである。
ところで小林秀雄が取り上げている荻生徂徠は江戸時代の人である。徂徠は儒教思想(だいたいは朱子学)に基づく道徳観を持っており、それを実践することが「学問」だと考えていたわけである。今日の社会科学などの「学問」は客観的でなければ成立しないので「人格」に付随する主観性は無視する。ところが、およそ人間の活動に関する分野で「人といふ活物」としての人格を無視してはうまくいかないことは明らかである。
たとえば公務員の不祥事があるたびに「倫理規定」なるものが作られるのだが、まともな人格を育んでいれば倫理規定を作ってそれを守るように教育するより有用だと思える。そのことを感じるがゆえに道徳教育が叫ばれるのであろう。しかし社会が複雑化するにつれ、判断を個人的恣意にまかせるわけにはいかなくなり、客観的にだれにでも守れる規定なり法律なりを作って制度化せざるをえないのもまた現実である。両者の葛藤は常にある。

大岡越前守のエピソードは面白い。徂徠は学問を学びたいと申し入れた大岡越前守に対して「御奉行は、名判官と謳われ、只今までの御さばきで、町人は得心しているではないか。その上、学問などとは無用の事である。学問は大道であって、急に学んで用に立つものでない。それに、学んで、なまじ少し許り明るくなれば、万事が非と見えるという事もある。学問は、隠居してから、という事に致してはどうか、と答えた。」という。
大岡越前守は時代劇では名奉行だが、実際は奉行としての仕事だけではなく現代にたとえれば「都知事」の仕事もしており、江戸の防火対策や無宿人の職業訓練など町人や罪人の心のひだをつかむような方策を考え実践した人である。まさに学問より実践の人だった。
徂徠のいう「窮理の道」とは「議論の精を尽して、道徳の原理に迫ろうとする形而上学」のことである。彼はこれを「私智に陥る」と批判し、「夢みず覚めて世間に生きていく」ことを理想とした。徂徠の心がけに学びたい。

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