2011年11月17日

小林秀雄「私の人生観」

「私の人生観」は昭和24年(1949)10月、創元社から刊行されている。「小林秀雄全作品17」に掲載されているエッセイだが、長文なので当時単行本で出版されたのではないかと思う。
人生観といっても、小林秀雄が書くのだから普通の意味の人生観ではない。まず人生観の「観」の解説から始める。「観」は仏教用語である。
観というのは見るという意味だが、電車とかを見るのではなく、たとえば極楽浄土というものがまざまざと観えてくる…のように使う。小林秀雄は禅を例にとって説明する。
禅というのは考える、思惟する、という意味だ、禅観というのは思惟するところを眼で観るという事になる。だから仏教でいう観法とは単なる認識論ではないのでありまして、人間の深い認識では、考える事と見る事とが同じにならねばならぬ、そういう身心相応した認識に達する為には、又身心相応した工夫を要する。そういう工夫を観法というと解してよかろうかと思われます。

禅宗の特徴は徹底的に自分の内部を見つめることだが、禅は「考える、思惟する」といっても言葉で論理的に考えることではなく、考える事と見る事とが同じになるような認識に達することだ。たとえば清らかな水の流れに想いをはせ、清冽さを観ずる。これを水想観という。
小林秀雄は絵仏師を例にして「観ること」はどういうことか説明する。
絵仏師というのは僧籍にある絵師をいうのですが、これは、僧でありながらたまたま画技にも長じていた人という意味ではないので、当時は僧籍にある事は絵師として大成するには大事な条件であった。又逆に密教の場合ほとんなどでは、画技に長じている事は僧となる為の殆ど必須の条件だったのであります。

絵かきが美を認識するとは、即ち美を創り出す事である。同様な事が観法にもある。念仏と見仏とは同じ事である。仏というアイディアを持っただけでは駄目だ、それが体験出来る様にならなくてはいけない、という事は、日常坐臥、己れの体験に即して仏を現さねばならぬ、創らねばならぬという事になる。そういう意味合いが観という言葉にはあると解してよかろうと思うのです。

禅宗は、御承知の様に「直指人心見性成仏」と言って、徹底した自己観察の道を行くのであります。「不立文字」という事を強調するが、これは言語表現の難かしさに関する異常に強い意識を表明したものであって、自己表現の否定をいうのではない。言語道断の境に至って、はじめて本当の言語が生れるという、甚だ贅沢な自己表現欲を語っているものだと考えられる。

山水は徒らに外部に存するのではない、寧ろ山水は胸中にあるのだ、という確信がもし彼等になかったなら、何事も起り得なかったというところが肝要なのである。彼等には画筆とともに禅家の観法の工夫があった。画筆をとって写す事の出来る自然というモデルが眼前にチラチラしているなどという事は何事でもない。自然観とは真如感という事である。真如という言葉は、かくの如く在るという意味です。

それは自然という「かくの如く在るもの」に出会う事ではない。要するに、室町水墨画の優れたものは、自然に対する人間の根本の態度の透徹は、外的条件の如何にかかわらず、いかなるものを表現し得るかという事を、明らかに語っているのであります。

小林秀雄は「観ること」はけっして受動的なものではないと言う。それは真理ではなく真如を見ることだ。真如という言葉は、かくの如く在るという意味だが、これを悟るには、精神の烈しい工夫の中から透徹することだと言っている。それは、絵かきにとっては胸中の中から美を作り出すことだ、己れの体験に即して仏を現わすことだと言う。
次に釈迦について語る。釈迦は烈しい否定の中から空を見抜くが、肯定と否定の形而上学的な体系に陥らず「行う事」を重視したと次のように述べる。
釈迦の哲学的智慧は、あらゆる哲学的智慧の例に洩れず、烈しい否定精神から始った様である。「般若経」は、その見取図だと言ってよろしい様で、ただ空と言うだけでは足らず、空々だとか大空だとか畢寛空だとか、やたらに空の字を重ねている、重ねた末、空は有に転ずると説く。成る程、釈迦の哲学的智慧の見取図と言ってもよいかも知れないが、釈迦という全人格の見取図とは言えますまい。
肯定が否定を招き、否定が肯定を生むという果てしない精神の旅は、哲学的思惟の常であり、そういう精神の運動は、恰も蚕が糸を吐くが如く、つまる処、己れを自足的な体系の中に閉じこめて了う。

「阿含経」の中に、こういう意味の話がある。ある人が釈迦に、この世は無常であるか、常住であるか、有限であるか、無限であるか、生命とは何か、肉体とは何か、そういう形而上学的問題をいろいろ持ち出して解答を迫ったところが、釈迦は、そういう質問には自分は答えない、お前は毒矢に当っているのに、医者に毒矢の本質について解答を求める負傷者の様なものだ、どんな解答が与えられるにせよ、それはお前の苦しみと死とには何の関係もない事だ、自分は毒矢を抜く事を教えるだけである、そう答えた。これが、所謂如来の不記であります。つまり、不記とは形而上学の不可能を言うのであるが、ただ、そういう消極的な意味に止まらない。空の形而上学は不可能だが、空の体験というものは可能である、空は不記だが、行う事によって空を現す事は出来る。本当に知るとは、行う事だ、そういう積極的な意味合いも含まれている様であります。

無我の法の発見は、恐らく釈迦を少しも安心などさせなかったのである。人間どもを容赦なく焼きつくす火が見えていたのである。進んで火に焼かれる他、これに対するどんな態度も迷いであると彼は決意したのではあるまいか。
不死鳥は灰の中から飛び立たぬ筈があろうか、心ない火が、そのまま慈悲の火となって、人の胸に燃えないと誰が言おうか。それが彼の空観である、私にはそういう風に思われます。

少々難解である。われわれは釈迦が見抜いた「空」や「無我」を知識として知ったつもりになっている。しかし小林秀雄は、ただ知っただけでは知ったことにはならない、「本当に知るとは、行う事だ」というのである。
仏教の「空」や「無我」を解説するだけでも難しい。私は肯定が否定を招き、否定が肯定を生むという形而上学的作業を実践して、空や無我をわかったつもりになっている程度である。小林秀雄は空や無我を悟っても、釈迦は少しも安心などしなかった、形而上学に留まらず、空や無我の焼きつくす火の中から不死鳥のように飛び立ち、慈悲の火に転じさせた、それが釈迦の空観である、と言う。
わかるような気もするが…ずいぶん釈迦を行動的に解釈する、小林秀雄はいつも厳しい。
「私の人生観」は長文のエッセイで、しかも仏教哲学を使用して、多くの例を挙げながら自分の人生観を述べているのだが、難解である。
次の例が理解しやすいかもしれない。われわれも西行の次の歌をそれなりに「わかる」。この「わかる」ことを深めていくのが「行う事」の修練だと思う。
例えば、「春風の花を散らすと見る夢はさめても胸の騒ぐなりけり」と歌われて、私達の胸中にも何ものかが騒ぐならば、西行の空観は、私達のうちに生きているわけでしょう。まるで虚空から花が降って来る様な歌だ。厭人も厭世もありはしない。この悲しみは生命に溢れています。この歌を美しいと感ずる限り、私達は、めいめいの美的経験のうちに、空即是色の教えを感得しているわけではないか。美しいと感ずる限りだ、感じなければ縁なき衆生である、まことに不思議な事であります。前にもお話しした通り、空観とは、真理に関する方法ではなく、真如を得る道なのである、現実を様々に限定する様々な理解を空しくして、はじめて、現実そのものと共感共鳴する事が出来るとする修練なのである。

次に小林秀雄は宮本武蔵の「我事に於て後悔せず」という言葉を取り上げる。
宮本武蔵の「独行道」のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。
自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういう小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。

宮本武蔵を借りて、小林秀雄は戦後自己批判している言論人に対して言っているのだ。
「後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ。今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て。」

ここまで読むと彼の「人生観」が見えてくる。
釈迦も宮本武蔵も実行の人で、反省や後悔をする人ではない。もちろん実行は懐疑を重ねてのことである。実行者には現実に対する畏敬の念がある。それは理論家とは違う。
「何事もわかりきった理屈としない、自分をごまかさずに現実に真摯に向き合って行動する」
というのが小林秀雄の「人生観」ではなかろうか。

戦後、自己批判などと戦争の反省をしている世間に対して、皆嘘の皮だと啖呵を切る。まことに小林秀雄らしい人生観である。

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posted by nobuoji at 18:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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